【沿革】

 白山神社は、皇極天皇2年(643)に当地にて「勅使をもって祭典を行う」とされた事を創始とする。神社境内より発掘された白鳳時代の須恵器、また周辺に天子塚などの地名が残る事からもその当時当宮を中心に高い文化を持った集落が発達していた事がうかがわれる。
 延喜式神名帳記載の黒田神社が当社である可能性は『尾張塘叢』、『参考本国神名帳集説』、『大日本史』、『日本地理資料』、『尾張国式社座地目録』、『尾張国明治神名帳』等が指摘している。



 
 
鎌倉末から室町初期の騒乱、黒田宿における北畠顕家と足利方の合戦(1337)、高師直と今川朝氏との間で行われた黒田宿の合戦(1350)、土岐一族の内乱における黒田合戦(1388)、この3つの戦いで当地は痛手を受け、その復興には相当の時間がかかったと思われる。
 特に最後の黒田合戦により消失した当社を復旧するため、土地の豪族の小島氏より社人(神官)を迎え、往時の威勢を取り戻さんと奮励するが、戦国の騒乱厳しく復興は遅々として進まずであった。
 戦国時代の末期、清洲織田家と岩倉織田家の内乱である浮野合戦(1560)により再び焼失した当社を再興したのが、当時の黒田城主一柳監物直盛公(在城1590〜1600)であり、奉行満志田彦四郎を派遣して当社を復興し、記録をひも解き古老を訪ねて過去の祭典を再興し、さらに氏子南黒田の町割を作り改め、後の当地の繁栄の礎を築かれた。
 ゆえに当地の人は、江戸時代を通じて公の恩を忘れることなく、廃城となった黒田城を「一柳様御館跡」、「一柳様御城跡」などと呼び、氏子祭礼では公の鎧を中心にすえて町内を練り歩き、その恩得を称えたのである。

【御神徳】

 
当社は古来疱瘡を初め病疫を防ぐ神としてあがめられ、法楽会と呼ばれる防疫の祭が毎年2月15日に行われていた。
 一柳公黒田城在城の頃、公の命により神官小島氏により疱瘡神の縁起が記され、法楽会祭礼復興の沙汰が下った。後、尾張藩主徳川義直公の嫡男疱瘡罹患の際、当社の霊験を聞きつけた藩侯の命により7日間のご祈祷の沙汰があり、見事平癒したとの記録あり、神官小島氏は感状と白金3枚の褒美を拝領している。
 この後、尾張家にて特に疱瘡他諸病の流行の際は、早馬にて当社の祈祷を申し付けられるのが慣例となり「尾張家祈願所」の名を賜り、葵の御紋の使用を許された。このようなことから諸病平癒に対する庶子の崇敬とが厚くなったと記録にも残る。
 毎年2月15日には疱瘡平癒を祈る祭事、「法楽会」が斎行され、当地のみならず尾張藩、近隣の村々、また諸国大名からも平癒の願いが寄せられ、社頭は多くの人で賑わったと伝えられる。
 幕末には文久元年、蔵人御所本光院宮大法尼が参拝され、同年10月には格別の霊験があったとして使いとして里村式部昌政、大森左門祐国両名を遣わして白銀7枚の寄進があった。また同じく10月には皇女和宮江戸下向の安全を祈願させるため、同社社人小島美濃正を参殿させ、御絵扇、御桃燈を貸渡して安全祈願を申し付けられた。
 文久2年には廣畑大納言忠礼より、鳥居、石垣、幕一張、水引一張、提灯二基、絵付一本、白銀十枚の寄進がなされている。更に、蔵人御所の心遣いにより、尾張、三河、美濃、信州などから神社造営のための寄進が寄せられている。
 

【社紋について】

☆三つ葉葵
既にお話したように、江戸時代を通じて当社は尾張家祈願所としての命を受け、疱瘡の祈願を主に病気平癒の祈祷を行っており、尾張藩本藩と分家である高鷲尾張家から三つ葉葵のご紋の使用をさし許されていました。

☆五三の桐紋
上に述べたように、幕末の頃、長年に渡る疱瘡平癒の祈願の縁により、同上公家集との縁ができました。それがもとで社紋が明治以降皇室の副紋である五三の桐になったのだと言われます。

☆丸に廣の紋
先に述べたように、幕末の頃廣畑大納言卿の参拝があり、蔵人御所と彼の卿の名による寄付造営が行われました。その際に丸に廣の紋を使うことをさし許されました。





☆Wikipedia「白山神社 (一宮市)」2007年11月3日 (土)の投稿は、このWebページの作成者によるものです。